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サックスと日常と非日常の記録

【再レビュー】カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」

この物語はキャシー・H ( =キャス ) が、淡々と訥々と言葉を探しながら綴るモノローグであり、そしてキャスとルース、トミーをめぐる彼らの20年、30年のクロニクルである。そこにはボクらの50年くらいの人生が凝縮している。彼らは、不条理、ささやかな抵抗、あるがままの受け入れを経て、そして生きる。彼らのプロセスはボクらの人生でもある。動かすことのできない大前提の前で、抗い、現実を知り、受け入れ、それでも生きていく。何故生きるのだろう。生物としての機能が終わりを迎えるまで、ただ物理的に生きる。それは生物としての大前提。かたや、その限られた期間をどう生きるか、これが我々の命題。それは彼らも同様である。

彼らの寄る辺立つ、今はなき懐かしい場所ヘールシャム。良きも悪しきも全ての想いが詰まった故郷。そしてイギリスの「忘れられた場所」であると同時に、「失くしたもの」「生きた証」の残骸が集積する場所、ロストコーナー、ノーフォーク。失われても心の中で生き続ける永遠の原風景と失くしたものが漂着し集積する荒涼とした土地。この二つの場所は全く対照的であるが、理想世界と現実の果ての象徴である。

カズオ・イシグロはその出自故にコスモポリタン的と言われるが、換言すれば寄る辺立つ故郷を持たない異邦人である。異邦人イシグロが思い描いた仮想故郷は、ボクらの失った故郷でもある。そこは心の中に永遠に残る故郷、友が集まるヘールシャム。そしてその仮想故郷を胸に、現実世界を生き、ロストコーナーで追憶に想いを馳せ、生き長らえ、凌いでしるのかもしれない。ロストコーナーの柵に引っかかり集積した布きれやゴミは、現実世界に生きる我々自身でもある。

「わたしを離さないで」誰が、何が、誰を、何を離さないのだろうか。故郷、友人、臓器は誰かのために私から離されていくが、心、心の中に生き続ける故郷、友、恋人、思い出は、永遠のものであり、離さないで。生きるための礎だから。

読後、特に気に留めていなかった表紙の帯に目をやると、映画のコピーが。「この命は、誰かのために。この心は、私のために。」涙腺のバルブが静かに開き、目と心から何かが滲み出してきた。

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)